2020/09/28 コラム

41年間も生産を続けたイギリスの小さな巨人、クラシック・ミニ【東京オリンピック1964年特集Vol.24】

前回オリンピック開催年、1964年を振り返る連載24回目は、driver1964年9月号に掲載した「クラシック・ミニ」に関して。

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1959年に本国デビューした「クラシック・ミニ」



1964(昭和39)年のdriver誌9月号に顔を揃えた、日英独それぞれを代表する偉大な大衆車。スバル360(連載第23回)に続くのはイギリスの小さな巨人、ミニである。もちろん、ブリティッシュ・モーター・カンパニー(BMC)によって世に送りだされたオリジナルの、いわゆるクラシック・ミニだ。




BMCの中の2ブランドからオースチン セブン/モーリス ミニ マイナーとして本国デビューしたのは、1959(昭和34)年。64年当時ですでに5年が経過している。オースチン版もミニに改名されたのは、1962(昭和37)年。

しかし、ご存じのとおり、後世から見ればまだ序盤に過ぎず、マイナーチェンジや改良を連綿と続けながら、なんと2000(平成12)年まで41年間も生産されることになる。1997年12月に発売された初代プリウス(トヨタ)のキャッチコピーは「21世紀に間に合いました」だったが、ミニはあと1年で21世紀に手が届くところだった。

59年と言えば、国内メーカーからはプリンス(当初は富士精密)の初代グロリア、初代ダットサン ブルーバード(日産)、スズライトTL(鈴木)がデビュー。スバル360(富士重工)は前年の58年に登場している。例えてみれば、こうしたクルマが基本設計を変えることなく、今から20年前まで現役を続けていたことになる。しかも、ミニは今もなお趣味的な旧車好きのお宝としてだけでなく、生活のミニマルな相棒として愛用される光景をごく普通に見かけるのだ。


●初代ダットサン ブルーバード


●初代スズライトTL

ちなみに、日本車の長寿記録は、初代センチュリー(トヨタ)の30年。初代デボネア(三菱)が22年で続く(連載第14回)。

ミニを生み出したのは、のちにイギリス王室から“サー”の称号を授けられた偉大なエンジニア、アレックス・イシゴニス。その友人にジョン・クーパーがいた。1959、60年のF1チャンピオン獲得など、当時のモータースポーツ界で名を馳せた希代のコンストラクターだ(連載第2回に関連)。

2人の関係によって1961年に誕生したのが、初代ミニ クーパー。ジョン・クーパーがミニのモータースポーツベース車としてのポテンシャルを見抜き、848㏄(34馬力)のエンジンを997㏄に拡大してSUキャブを2連装(55馬力)、フロントにディスクブレーキを採用するなど、戦闘力を大幅に高めたスポーツモデルだ。

そして、ミニ クーパーをベースに、チューナーのダニエル・リッチモンド率いるダウントン社がさらに高性能化したのがミニ クーパーS。排気量は1071㏄(70馬力)まで拡大、足まわりなどもいっそう強化された。

両車はデビューするや、破竹の勢いで暴れまくる。クーパーは62年だけでも世界中のレースやラリーで150勝を挙げたというから凄い。クーパーSに至っては、この64年にモンテカルロラリーで総合優勝(連載第1回)。モータースポーツにおける華々しい大活躍も、ミニとクーパーの名前を世界にとどろかせた。

当時のdriver誌でも、その存在に少なからず関心を寄せていたようだ。64年7月号では、提携していたMOTOR誌のロードテストからモーリス ミニ クーパーS、そしてこの9月号では国内登録された同じくクーパーを採り上げている。当時、モーリス ミニは日英自動車など数社が販売。オースチン版はキャピタルの扱いだった。

「この羊の皮を被った狼は、軽4輪のような顔をしてなんと145㎞/hをマークする。驚くなかれチューニングアップしだいで85hp、175㎞/hの怪物になるのだ」(文中より)





当時の軽4輪規格は、ボディが全長3m以下・全幅1.3m以下・全高2m以下、エンジンは360㏄以下。軽自動車でマイカーの夢をかなえても、高性能車など夢のまた夢でしかなかった大衆ユーザーにとって、まさしく軽なみの小粒なボディに1L直4を詰め込んだクーパーは、驚嘆の存在だったに違いない。

巻末近くの「国産車仕様価格一覧表」で当時の日本車の最高速を確認すると、もっとも高いのはグランドグロリア(2.5L直6)とスカイラインGT(2L直6)のプリンス勢で、ともに170㎞/hである。

スカイラインGT(連載第6回)と言えば、日本グランプリ。64年の第2回大会(連載第10回)には、オースチン ミニ クーパーSがT-Ⅲクラス(700~1000㏄)に参戦している(クーパーSは64年に970㏄と1275㏄が登場)。ドライバーは写真家にしてミニフリークの草分けとなった早崎 治。

この時は横転のアクシデントもあり8位に甘んじたが、その後もミニの使い手として国内レースで活躍した。JAFのデータベースを確認すると、翌65年の船橋サーキットではスプリントレースで 2度優勝。68年の富士24時間自動車レースでは、フェアレディ2000(日産)、トヨタ1600GTなど名だたる国産スポーツ勢と渡り合い、見事2位を獲得している。

のちにトヨタのワークスドライバーとなる高橋利昭も、ミニに輝かしい戦歴を残した。65年の第2回クラブマン鈴鹿レースミーティングでは、ホンダS600(連載第5回)を駆る浮谷東次郎が優勝し、高橋は3位を獲得。同年の船橋サーキット・スピードフェスティバルでは、日野コンテッサ、日産ブルーバードの両ワークス勢を退けて優勝をさらっている。

ミニは当時まだドライブシャフトのジョイントが技術的に難しく、世界的にもマイナーだったFFレイアウトを採用。モータースポーツにおける八面六臂の活躍は、FFがパッケージだけでなく走行性能にも優れており、信頼性の面でも問題がないことの証左となった。その後の大衆車におけるFFの普及に、極めて大きな影響を与えたことは言うまでもない。

イギリス自動車業界の衰退により名だたるメーカーの合併は始まっていたが、黎明期の日本から見た多くのイギリス車はまだ異次元の輝きを放っていた。

〈文=戸田治宏〉

ドライバーWeb編集部

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